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2008年4月1日火曜日

神との対話 批判

霊性進化の道 スピリチュアリズムというサイトにある
スピリチュアリズムから見た『神との対話』(神との対話の批判)
というページに関してです。



 『神との対話』を、スピリチュアリズムの「霊的真理」と対比させながら見ていくと、その内容の多くが嘘と偽りの連続であることにすぐに気がつきます。

 『神との対話』を、現代までに積み上げられてきた「科学」や現代社会で起こっている様々な問題と対比させながら見ていくと、その内容がすばらしいものであるとわかります。スピリチュアリズムの「霊的真理」を知っても、現実社会を見ないのであれば話になりません。ある程度科学や現代社会について勉強している人であれば、その内容がデタラメではないことを知っています。あんなに分かりやすい物理学の入門書は、この世に存在しないでしょう。アインシュタインの相対性理論を理解した上で、ユーモアを交えてあれだけ分かりやすく説明できるのは、筆者が(自動書記だとしたら、その霊が)優れた知性を持ち合わせている証拠です。





 結論を言えば、「霊的真理」を理解している人ならば、初めから偽物と簡単に断定できる代物(しろもの)です。かつての幸福の科学のデタラメ霊言集ほどではないにしても、まさに「典型的な低俗チャネリング」と言うべきものです。本物の霊界通信に触れたことのある人には、到底読むに堪えられないものなのです。

 そもそも「霊的真理」は、論理的ににその真偽が判断できるものではありません。結局は個人の理性・判断に任せられるものですし、そうすべきであるとシルバーバーチも述べています。ですから、「霊的真理」は論証する際の基準としてはふさわしいものではありません。(これをつきつめていくと、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」にいきつくんでしょうけど・・・。ここではこの議論は行いません。)
この「霊的真理」の真偽を全く疑っていないという点、言い換えれば「自己批判能力の欠如」こそが「典型的な低俗」と呼ぶべきものであって、ナザレのイエスをはじめとする高級霊の説く霊的真理とは相容れないものです。
 このサイトの文章を書いた人はスピリチュアリズムを広める前に、まず数学や物理学などの科学を勉強する必要があります。それ以前に、「到底読むに堪えられな」かったので「神との対話」もまともに読んでいないのでしょうが・・・。


 『神との対話』は、このニューズレターで示した高級霊による通信の条件から、すべて外れています。スピリチュアリズムの霊的真理と比較するまでもなく、その内容のひどさは一目瞭然です。

 上でも述べましたが、「霊的真理」は論証の際の根拠としてはふさわしくありません。スピリチュアリズムを広める前に、論文の書き方を勉強しましょう。そもそも「ニューズレターで示した高級霊による通信の条件」の方が間違っている可能性だってあるわけですから。もう少し科学を勉強してください。



それに比べ『神との対話』のチャネラーは、それほど知性的でもなく、知識も乏しいために、通信内容が知性を感じさせないものになっています。同じニセ通信であっても、チャネラーの知性の差が歴然としています。

 別に、チャネラーには大した知性は必要ないでしょう。逆に、たいした知性も知識もないのに、あれだけの文章が書けたら大したものです。
 私個人としては、この文章を書いた人の方が『神との対話』のチャネラー以上に知性がないように感じますが。


 霊界通信について少しでも知っている人ならば、神が直接、通信を送ってくるようなことはあり得ないと考えるのが常識です。ウォルシュに自動書記をさせ、質問の答えを送ってきたのは神ではなく、“霊”であることは今さら言うまでもありません。『神との対話』のチャネラーは、こうしたごく当たり前の霊的な判断さえもできず、通信内容をそのまま鵜呑みにし、神からの返事が得られたと思っていたのです。それほど霊的事実に対して無知であったということなのです。お粗末と言えばあまりにもお粗末です。

 知性の高い者が知性の低い相手に対して語りかけるのですから、その方が都合がよければ自らを「神」と名乗ることだってありうるでしょう。小学生に、「0よりも小さい数はありません。だから3から5は引けないんですよ。」と教えるのと同じことです。
 たとえチャネラーが通信内容を鵜呑みにしていたとしても、文章を読む側である私たちが判断を行えばよいのですから、霊的事実に対して無知であっても全く問題ないのではないでしょうか?最近、情報化が進むに伴って「メディア・リテラシー」教育の重要性が認識されてきていますが、こんなこともご存知ないのでしょうか?
 この文章を書いた人は、結局「自分は霊界通信についてよく知っている」ということがいいたかったといわれても仕方がないでしょう。

 


それを聞いてウォルシュはびっくりし、神に詰め寄ります――「私は本当の神と話していると思っていました。神の中の神です。トップ、ボスですよ」ここで初めて、通信を送ってきたのが本当の神でないことが分かったのです。これには、さすがのウォルシュも驚いて「神との対話」をやめると思いきや、依然として滑稽な対話は続くことになります。これまで騙されてきたことに懲りる素振(そぶ)りもありません。神の名を騙(かた)る相手は、その後も以前と同じように、まるで神のごとくのポーズで語り続けます。

 これについてはもうすでに述べていますよね。「知性の高い者が知性の低い相手に対して語りかけるのですから、その方が都合がよければ自らを「神」と名乗ることだってありうるでしょう。」ということでした。

 「まるで神のごとくのポーズで語り続けます」というのは、別に矛盾を感じませんし、どちらかというとこれは翻訳の際の問題でしょう。

This is a pen.

「これはペンです。」
と訳すか、
「これはペンだ。」
と訳すかは、翻訳者の好みです。

 同様に、「神」と名乗る霊の言葉を「である調」で書き、ニール・ドナルド ウォルシュの文章を「です・ます調」で訳すというのも、結局は翻訳者の好みです。
 たとえば、「神との対話②」16章に

 対話の1冊めでは個人的な人生のさまざまなことがらについて話しましたが、この本では地球規模で、人生の大きな問題について話しています。ですから、環境について、お聞きしたいことがあるのですが。

 何が知りたいのかな?

 環境保護主義者が主張しているように、環境は破壊されているのですか?それとも、彼らは目をぎらつかせた過激派、ピンクがかかったリベラルな共産主義者で、カリフォルニア大学バークレー校出身のマリファナ中毒者なのですか?

 どちらもイエスだ。

 えっ、なんですって―???

 いや、冗談さ。よろしい、1つ目の質問の答えはイエス、2つ目はノーだ。

 オゾン層は破壊されているのですか?熱帯雨林は滅びかけているのですか?

 そうだ。だが、どう見ても明らかなことばかりではない。もっと見えにくいことに関心を向けるべきだよ。

 教えてください。
 

 という一節がありますが、これを、逆にして訳すと


 対話の1冊めでは個人的な人生のさまざまなことがらについて話したけど、この本では地球規模で、人生の大きな問題について話しているよね?だから、環境について、聞きたいことがあるんだけど。

 何が知りたいのですか?

 環境保護主義者が主張しているように、環境は破壊されているの?それとも、彼らは目をぎらつかせた過激派、ピンクがかかったリベラルな共産主義者で、カリフォルニア大学バークレー校出身のマリファナ中毒者なの?

 どちらもイエスです。

 えっ、なんだって―???

 いや、冗談ですよ。ええと、1つ目の質問の答えはイエス、2つ目はノーですね。

 オゾン層は破壊されているの?熱帯雨林は滅びかけているの?

 そうです。しかし、どう見ても明らかなことばかりではありません。もっと見えにくいことに関心を向けるべきだと思います。

 もっと詳しく教えてよ。
 

 のようになり、雰囲気がだいぶ変わります。「神との対話」というよりも、「女神との対話」のような感じになりました。このような翻訳であったら、おそらく「まるで神のごとくのポーズで語り続けます」という評価はでてこなかったでしょう。

 そもそも、スピリチュアリズムの文献はそのほとんどが海外のものであり、翻訳の過程でその文章本来の意味が若干ずれてしまったり、日本の文化からみると理解が難しい文章などもあります。このサイトの文章作成者は、スピリチュアリズムを語りながらも、そのような翻訳過程を全く考慮に入れていないというのが信じられません。


 私はこの「霊性進化の道 スピリチュアリズム」というサイトの文章があまりにもおそまつなのに驚いています。ある程度学業を積んできた人であれば誰でもそう感じると思うので、スピリチュアリズムのために貢献しようという医師は現れたとしても、このサイトに協力しようというまともな医師は現れないでしょう。


 結論としては、この「霊性進化の道 スピリチュアリズム」というサイトにのっている「スピリチュアリズムから見た『神との対話』」というページに書かれていることは、「『神との対話』が高級霊からの通信かそれとも低級霊からの通信か」という真偽が検証できない議論に終始しており、全く無意味な議論であるといわざるを得ません。

 正直なところ私たちにとっては、その通信が(文章が)高級霊からのものなのか、低級霊からのものなのか、それとも筆者が思いついたものなのかというのはどうでもよいことなのです。むしろ大切なのは、その文章が私たちの生活や社会を向上させるのに役に立つかどうかということです。



スピリチュアリズムから見た『神との対話』
http://www5a.biglobe.ne.jp/%7Espk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-18/spnl-18-2.htm

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2008年3月19日水曜日

アガペー(agape) 無条件の愛 無償の愛

 「アガペー(agape)」は「無償の愛」もしくは「無条件の愛」などと訳されますが、これは言葉どおりに受け取ってはいけません。というのも、「無条件の愛」は実際には無条件ではないからです。




 しかし私は、ナザレのイエスが誤っていると言いたいのではありません。そうではなく、「無条件の愛」という表現が適切にイエスの言いたいことを表現できていないと言いたいのです。

 人間はそもそも無条件に他人を愛することができるようにできてはいません。ですから、たとえ自己の向上のために「無条件に人を愛そう」などと決めても、結局は向上の役にたたず、その人の人生はたいして良くはならないでしょう。

 あなたがもし自己の向上を望むのであれば、相手を愛する条件の敷居を下げることです。たとえば、「神の子であるがゆえにこの人を愛する」「存在するがゆえにあの人を愛する」のようにです。このようにできるだけ多くの人が含まれるように愛する条件を設定すればするほど、「無条件の愛」に近づいていきます。そして、すべての存在が含まれるように条件を設定した時、それはイエスの言う「無条件の愛」、つまり「アガペー」となるのです。

 このことを理解していない神父やスピリチュアリストがあまりにも多すぎます。こういう人たちの言葉や文章は、母親の書く「うちの子が一番かわいい」という文章と同レベルです。ただ、スピリチュアルに関係する言葉を使っているか否かということが異なるだけです。

 ですから、皆さんがスピリチュアルなことがらを学ぶ際には、耳障りの良い言葉を使っているかに惑わされず、自分の感じるものにも細心の注意を払う必要があります。


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